2013/03
教育者 津田梅子君川 治


[女性科学者・技術者シリーズ 5 ]
津田塾大学正門風景

 津田梅子が興した女子英学塾は、津田英学塾と改称して津田梅子記念碑となった。当時の校舎本館もハーツホン・ホールと呼ばれアナ・ハーツホンを記念している。


父・津田仙について
「小さな子供を留学させる母親の顔が見たい」と囁かれたというが、この父あって梅子があるといえるだろう。
 梅子の父・津田仙は開明派大名佐倉藩主・堀田正睦の家臣小島善右衛門良親の子で、天保8年(1837)に生まれた。堀田正睦はアメリカ公使ハリスと通商条約を締結した幕府老中である。
 小島(津田)仙は手塚律蔵に蘭学を学び、将来を見越して横浜の英国人医者に英語を学んだ。後に幕臣津田氏の婿養子になって、幕府外国奉行の通訳に採用された先見の人である。1867年に幕府勘定方の小野友五郎が軍艦引取交渉で米国へ派遣されたが、この随員に福沢諭吉とともに選ばれて半年間アメリカに滞在した。
 岩倉使節団に女子留学生を加える話を知り、最初は長女琴子に留学を勧めたが嫌がったので、次女の梅子を留学させた。
 明治維新後は、士族として農民を抑圧した贖罪から「官には付かない」として、妻初と共に洗礼を受けて農業と教育を主な仕事とした。津田仙もまた、さまざまな業績を残している。
 英語力を生かして築地のホテル館に勤務したが、料理に必要な西洋野菜がないことに着目して西洋野菜の栽培をはじめた。
 明治6年のウイーン万博には佐野常民副総裁の随員に選ばれて洋行し、農学者の口述を翻訳した「農業三事」を出版しベストセラーとなる。
 農業の研究に励み、学農社農学校を設立し、農業雑誌を発行して啓蒙活動に努めた。青山女学院や東京盲聾啞学校の設立にもかかわる。
 キリスト教徒では中村正直(東京女高師校長)、新渡戸稲造(一校校長)、新島襄(同志社創始者)、内村鑑三などとの交流がある。


梅子の背中を押した人たち
 ◆黒田清隆(北海道開拓使長官)
 アメリカに農業調査に行き、アメリカの国情と女性の地位が高いことを知った。我が国近代化には人材育成が急務であり、先ずは子供を教育する母親を教育しなければならない。帰国した黒田は明治4年の岩倉具視使節団に男子留学生が50人以上加わっているのを知り、女子留学生も加えるように進言して、梅子らの留学が実現した。
 ◆アリス・ベーコン(山川捨松の寄宿したレナード・ベーコン家の末娘)
 大学卒業後師範学校教師をしていた。梅子の依頼で来日したアリス・ベーコンは華族女学校の英語教師を務めた。彼女は梅子に大学留学を奨め、梅子が塾を開設するときは協力すると約束した。アメリカでは師範学校校長になっている。
 ◆アナ・ハーツホン(医学者ヘンリー・ハーツホンの一人娘)
 津田仙が渡米した時、ヘンリー・ハーツホンが書いた医学書を持ち帰り、「内科要摘」として出版してベストセラーとなった。これが機縁でヘンリー・ハーツホンが一人娘を伴って2度来日。娘のアナ・ハーツホンはアメリカの師範学校教師で、梅子の塾の支援者として長く教授を務めた。
 ◆モーリス夫人(クエーカー教徒夫人伝道協会の活動家)
 娘メアリーと梅子は親しくしていた。モーリス夫人はブリンマー大学留学の手続きを整えてくれた。梅子の女子英学塾開設を金銭面から支援したのがフィラデルフィア委員会で、中心人物はモーリス夫人。委員会にはミス・トマス(ブリンマー大学理事)、メアリ・エルギントン・ニトベ(新渡戸稲造夫人)もいた。

 
 西武鉄道国分寺線鷹の台駅から武蔵野の面影を残す玉川上水に沿って歩くと、津田塾大学がある。津田梅子資料室は図書館の2階にあり、小さな一部屋に歴史展示がある。毎年咲き誇る校庭の桜木のその奥に、津田梅子の墓があった。
 津田塾大学の創設者、津田梅子は個人の能力、多くの支援者を引き付ける魅力、女子教育に対する信念など、偉大な人物であった。


アメリカ留学
 津田梅子は明治4年(1890)に、数え年8歳(満6歳11ヶ月)のときにアメリカに留学した。同行したのは吉益亮子(15歳)、上田悌子(15歳)、山川捨松(12歳)、永井繁子(9歳)の5人。いずれも士族の娘たちである。
 山川捨松は会津藩士・山川久尚の娘で、祖父は藩家老・山川重英である。兄は会津白虎隊に参加し、維新後アメリカに留学した物理学者・山川健次郎で、後に東京大学総長を務めた。
 永井繁子は佐渡奉行下役・益田孝義の4女で、父はその後箱舘奉行、幕府遣仏使節に加わった人物。兄は三井物産の創始者で茶人としても有名な益田孝である。繁子は永井家に養子に出されていたが、兄孝の熱心な勧めで留学に応募した。捨松と繁子は津田梅子の生涯に亘る友であり支援者となる。
 梅子はワシントン郊外のジョージタウンにある、日本公使館の書記官を務めるチャールズ・ランメン夫妻の家に寄宿して、地域の小学校へ通った。子供のいないランメン夫妻から実の娘の如く教育され、6年制の小学校を経て女学校アーサー・インスチチュートに入学し、1882年に卒業して帰国した。
 知日家の知識人であるランメン家は書籍や美術品が多くあり、図書館や美術館のようだった。梅子は英語や英文学を専攻したが、数学・物理学・天文学など理系の学科に抜群の成績を示したという。
 9歳の時に自ら望んで洗礼を受けた。ランメン夫妻に連れられてアメリカ各地を旅行して見聞を広め、帰国したときは日本語を忘れていた。後に日本の習慣や言葉を徐々に覚えていく過程を、アメリカで育った木を日本に移植した“接ぎ木した樹のようだ”と譬えている。


教育者・津田梅子
 帰国後、男子留学生が帰国すると仕事場を与えられるのに対して、女性には文部省も何も言わないのは実に奇妙だと、日本の女性が職業を持たず地位が低いのに驚く。
 仕事も無く悶々としている時に、留学時の船で知っていた伊藤博文公から家庭教師の依頼があり、住込みで夫人の通訳と娘に英語を教える仕事を引き受けた。その後、1885年に伊藤博文が設立した華族女学校の英語教師となり、女子高等師範学校の英語教授も兼務していたが、良妻賢母を目的とする女子教育に違和感を抱いていた。梅子の目指す教育は、男子と遜色のない教育、専門教育、高等教育、そして全人教育(彼女の言葉で云うとAll-round Women)であった。
 梅子には捨松や繁子のように大学を卒業していない引け目があった。そこで教育者として独り立ちするため、再度アメリカへの留学を希望する。1889年に米国のブリンマー大学に留学し、生物学を専攻した。教授は後に遺伝学でノーベル賞を受賞したモーガン教授で、カエルの研究では共同の論文も発表している。この留学中に師範学校で教育法も修めて、将来に備えた。
 帰国して1900年に女子英学塾を設立した。一緒に留学した山川捨松(結婚して大山侯爵夫人捨松)が顧問となり、姉・琴子の夫・上野栄三郎(新島襄の同志社で学んだ数学者)も教授として塾の創設に協力した。
 アメリカの友人アリス・ベーコンは来日して無報酬で教授を引き受けた。東京女子高等師範教授を兼務して家賃を支払った。1902年にアリス・ベーコンが帰国するとアナ・ハーツホンが教授として来日し、太平洋戦争が勃発する直前まで東京に在住している。
 津田梅子の教育方針は少人数制による家庭的薫陶、キリスト教主義による全人教育、設備より教師、英語力をつけ文部省英語検定合格を目指すなどである。
 日本家屋の教室で少人数からスタートした塾も徐々に学生数が増え、麹町一番町、元薗町、五番町と大きな家を求めて移り、1904年に専門学校令の認可を受けた。女子の学校では日本女子大学校と青山女学院の3校のみであった。
 1905年に英語教員無試験検定許可を受け、1911年に創立10周年記念式典を行ったころが梅子の一番充実していた頃だろう。1917年53歳で病に倒れ、その後は静養の日々であった。


日本人の体をもったアメリカ人
 筆者の驚きは、留学したのが満7歳の時で帰国したのが18歳、11年間も留学していて帰国したときは日本語を忘れていたにもかかわらず、日本の精神は忘れていないことである。
 文学者・亀田帛子はその著書の中で次のように述べている。
 ――梅子の意識は一般の日本人よりずっと日本的であるが、一般には理解して貰えない。無意識にしている行為はアメリカ人の行為に限りなく近い。
 梅子は「アメリカ人」と「日本人」の間を行き来しながら生きている感がある。実際、梅子は2度の留学を含めて5回アメリカに行き、在米期間は16年に及ぶ。65年の生涯のうち、晩年の病を得た10年間と留学前、子供の頃の7年間を除いた活動期48年間の、実に1/3をアメリカで過ごしたことになる。――


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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